そわそわと眼前のうな重とお吸い物を気にしていたら「これにサインをくれたら、ね? 食事もそれからにしよう」とか。
「確認なんですけど……サインだけでいいんですよね?」 サインひとつで目の前の美味しそうなお料理も、まだお目にかかったことすらない櫃まぶしや肝吸いも私のもの? ふふふ。 サインのひとつやふたつ、お安い御用よ? だって日本では署名の横に捺印がないと、どんな書類もあまり効力を発揮しないんでしょう? 私、今日は印鑑持ってないし、いざ捺印を迫られてもない袖は振れないわ。 持たざる者の強みってやつね。 薄茶色のA3サイズが2つ折りにされたと思しき用紙の下部の方を指さされて、同じくスーツのポケットから取り出された高級そうなボールペンを手渡される。 お腹空いたーって思いながらサラサラッと名前を走り書きしたら、書き終えたと同時にギュッと手を握られて――。 「なっ、何ですかっ」 言うと同時に親指にヒヤリとした何かを押し当てられて、そのまま名前を書いた横にポン、と。 あ、赤いのついた。 理解の追いつかない頭でぼんやりその書類を眺めたら、署名と赤いの――あ、これ拇印ってやつじゃないの?――が載っかった欄に、小さく「妻」という文字が見えて。 ん? ちょっと待って、ちょっと待って! これってもしかして――。 「御神本(みきもと)さん……」 バシッと署名したばかりの用紙を押さえようとしたら、わずかばかり遅かった。さっさと回収されてしまう。 「何度も言わせるな。俺のことは頼綱(よりつな)と呼べ」 そそくさとそれを折り畳んで内ポケットに仕舞いながら、「後日証人欄にキミのお母様に署名捺印と同意の旨明記いただこう。証人のあと1人はまぁ何とかなる」とか。 「――さぁ、約束通り召し上がれ」 この話はここで終わり、とばかりにさっさと話題を切り替えられて、私は条件反射みたいに「いただきます」をしてうなぎをひと口ぱくり。 ……してる場合じゃなーい! そんなんじゃ誤魔化されないんだからねっ? 一生懸命大好きなうなぎをもぐもぐしながら、御神本さんを睨みつける。睨みつけながらもうひと口パクリ。 あーん、美味しいっ! 美味し過ぎて、やめなきゃって思うのに次々に口に入れちゃうのを止められない。 入れるのやめなきゃ話せないのにっ! モグモグ……ゴクン……。モグモグ……ゴクン……。 それを無言でしばらく続けて……お重の中が、最初の量の10分の1くらいになったところで私はお吸い物をひと口飲んで、やっと手を止めた。 そうしてからようやく、私の前で澄ました顔でうな重を口に運んでいる御神本さんを睨みつける。 ピンと伸びた背筋や、箸を口元に運ぶ角度など、何を取っても所作がすごく綺麗で、お育ちの良さを感じてしまう。何だか悔しいな。 そんな人を前に私はガサガサと騒ぎ立てる。 「さっきのっ!」 言ったらチラリと視線を投げかけられて、 「さっきの? はて……何の話だろうね?」 分かってるくせに絶対惚けてる。 「9つしか離れてないくせにボケるのは早いんじゃないですか?」 そこで、御神本さんの手元のお重を見て、我慢できずにもうひと口だけ、と今にもなくなりそうな自分のうなぎをパクリ。 んーっ! ふかふかで本当美味しいっ。 じゃなくて――! 「む、胸元に仕舞い込んだ書類っ! もう1度見せてください! 証人欄とか母の同意とか何ですか? 私が名前を書いたところ、〝妻〟って書かれてた気がするんですけど! ――ゆ、指だって勝手に使われたの気になりますしっ」 そこでさっき朱肉をつけられてほんのりと赤く色づいたままの右手親指を彼に向かって突き出す。 「――何を今更」 はぁと溜め息混じりに言われて、私の方に義があるはずなのに、何故かグラつきそうになる。 え? おかしいの、私? ち、違う……よね? 「さっきの書類の証人欄を成人した誰かに埋めてもらって、キミのお母様に結婚に同意する旨の但し書きを頂いて役所に提出すれば、村陰(むらかげ)花々里(かがり)は俺の妻の御神本(みきもと)花々里(かがり)になる。それだけのことだ」 開いた口が塞がらないという言葉を、身をもって経験したのは今日が初めてです! 口をポカーンと開けすぎて、危うくよだれが垂れてしまいそうになる。危ない、危ないっ。私は慌てて口を閉じた。 だ、だいたいっ、プロポーズとかありました? 私がおバカで忘れてるだけ? 妻になること前提で云々がそれだとしたら「んなバカな!?」ですよ? 何にしてもっ。そんなインパクトの薄い求婚ダメでしょう? 百歩譲ってそれがアレだったとして……私OKしてないしっ。花々里《かがり》が話してくれた、〝大好きだったお兄さん〟とやらは、きっと、俺たちにとって弊害にしかならないよね? そいつはある日突然あの子の前からいなくなったという話だけど、それを言うなら俺だってそうだ。 だとしたら、いつまた俺みたいに舞い戻ってこないとも限らないよな?と思ってしまって。 話を聞く限りだと、腹立たしいことに花々里にかなり影響を与えた男のようだし、全くもって油断が出来ないじゃないか。 何しろ花々里は幼少の頃、あんなに「よりつな」「よりつな」と懐いてくれていたはずなのに、いざ再会してみても、俺のことなんて微塵も覚えていなかった。 そればかりか、未だに思い出しもしないからね。 もしかして、という懸念が拭えない以上、花々里を〝法的に〟自分のものにするのを急いだほうがいいのかも知れない。 あの子がまだ20歳《はたち》にも達していない未成年だとか、大学に通う学生だとか、そんなのは正直どうだっていい。 そもそも俺たちはすでにひとつ屋根の下で寝食をともにしているし、そこに書類上の〝婚姻〟という事象が加わったからと言って日常生活には何ら変化はないだろう? とりあえず、花々里は幼なじみくんのことにカタを付けるまでは待って欲しいと思っているみたいだから。 そこはまぁ、待ってやるつもりだ。 あの彼だって相当花々里に傾倒していることを思えば、不穏分子はひとつでも潰しておいた方がいい。 それは俺も大事なことだとは分かっているつもりなんだけどね……。正直その時間ですらも惜しいと思ってしまうのは、まぁ致し方ないよね。 花々里の気持ちは極力尊重してやりたいと思うのと同じくらい、俺が焦っていることも理解して欲しい。 あー、クソッ! 花々里は幼い頃、あんなに餌付けしたにも関わらず
花々里《かがり》に「俺のこと、〝男として〟好きになれそうか?」と問いかけたとき、柄にもなく物凄く緊張してしまった。 それまで何度も彼女に対して「嫁に来い」的なことは告げてきたし、何なら軽く騙して婚姻届に署名捺印だってさせた。 なのに、だ。 花々里と生活をともにして、彼女のことを知れば知るほど、花々里の世話を焼けば焼くほど。 花々里にのめり込んでいく自分を感じて、どうしようもなく焦燥感が募った。 花々里が絡むと些細なことで腹が立つし、逆にあの子がほんの少し俺に気がある素振りをしてくれただけで、やたらと嬉しくなってしまう。 いつの間に、俺はこんなに花々里に惚れ込んでしまったんだろう。 確かに、見舞いに行った折、病院で村陰《むらかげ》さんに成長したお嬢さんの写真を見せてもらった瞬間から、彼女のことは好みのど真ん中だと認識していたし、何としても手に入れたいと強く願いはした。 けれど、だからといって、自分のペースを乱されるほどの激情に飲まれるとは思っていなかったんだ。 なのに今は何てザマだろう。 自分のことを〝男として〟見てくれるかどうか問いかけるだけで、あんなに緊張するとか。 俺は実際自分のことをそれほどスペックの低い男だとは思っていない。 同年代の他の奴らに比べたら財力だってある方だと思うし、顔だってそこそこに整っていると自負している。 子供の頃から異性にちやほやされてきたのも否めないし、何より長じてからも取っ付き難い雰囲気だと自認しているいもかかわらず、そこそこにモテてきた。 だけど不思議とどんな女性たちのことも〝遊ぶ相手として〟見ることはあっても、〝本気にだけは〟ならなかったんだ。 何て言うのかな。 一緒に食事をしても楽しくない
何とか身体を丸めて服をダボつかせたいのに、そのまま壁に両手を押し付けるように磔にされた私は、逆に胸を突き出したみたいな格好になってしまって真っ赤になる。 「より、つ、なっ、お願っ、離して……っ」 涙目になりながら訴えてみたけれど、頼綱《よりつな》はまるで聞く耳を持たないみたいに微動だにしてくれないの。 そればかりか、さっきは慌ててそらしたはずの私の胸元を、溶けてしまいそうなぐらい熱のこもった視線で見つめてきて、もうそれだけで余計にそこが固くしこってくるのが分かった私は、どうしたらいいのか分からなくなる。 「やっ、見ない……でっ」 頼綱、男の人の目をしてる――? そのことに気付いた途端、恥ずかしさからだけじゃない熱がぶわりと身体を満たして、ますます混乱してしまう。 「研修中の身とはいえ、俺は一応医者だからね。多分普通の人よりは沢山女性の身体に接する機会があったと思う」 さっき、私が思ったことを頼綱自身に告げられて、私は居た堪れない気持ちになった。 だからっ、私の身体はそんな目の肥えた頼綱には余りにもお粗末で申し訳なく思っているのっ。 お願いだから……隠させて? 別に直接肌を見られているわけじゃない。 けれど、ツンと張り詰めた先端の形状がありありと浮き上がった胸元を見られるのは、何故だか裸を見られるよりも恥ずかしく思えて。 ギュッと目をつぶって頼綱からの視線を視界から遮断したら、すぐ耳元に頼綱の唇が寄せられた。 「――だけどね、花々里《かがり》。俺が心の底から〝見たい、触れたい〟と思うのは、キミの身体だけだよ?」 意図したわけではないと思うけれど、頼綱が一音一音発するたびに耳孔を彼の呼気がくすぐって。 「――んっ」 思わず小さく
入り口に突っ立ったまま廊下を睨みつけて止まってしまった私に、「左だよ」とすぐ背後から頼綱《よりつな》の声がかかる。 いつの間にか、私のすぐそばまできていた頼綱に、身体の向きを変えるようにそっと両肩に触れられて、 「わ、分かってるもんっ!」 思わず肩を跳ねさせて、彼から距離をとるように飛びのいてから、それを誤魔化すみたいに頼綱の方を振り返って目一杯虚勢をはってみせた。 と、そんな私を見るなり頼綱が固まってしまって、そのことに気がついた私は「ん?」と思ってキョトンとする。 「花々里《かがり》、それ……」 呆然としたようにそうつぶやいた頼綱が、慌てたように視線を背けた。 それを見て、私は頼綱に目を逸らされたばかりの自分の胸元を見て――。 「――っ!」 薄手のパジャマの布地をしっかり持ち上げるように、胸のところに2箇所、ツン!……と存在を誇示するように立ち上がっているものが目に入って、思わず声にならない悲鳴を上げた。 そのままギュッと胸元を両手で隠してその場にしゃがみ込んだら、頼綱がふわりと身体に毛布をかけてくれる。 今まで包まっていたそれを身体にもう1度きつく巻きつけると、私はしゃがみ込んだまま恐る恐る頼綱を見上げた。 頼綱は、未だに私の方へ背中を向けたまま立っていて。 それだけならまだしも「――その……、すまない。ふ、不可抗力とはいえ、キミに恥ずかしい思いをさせてしまった」とか……。 何で貴方が謝るの!? 「こっ、こちらこそ……そのっ、ごめんなさいっ! 私、いつも寝る時はブラ、つけてなくて……。それでっ」 今日はお風呂上がり、頼綱の部屋に呼ばれていたにも関わらず、ついいつもの癖で下着をつけずに出向いて来てしまった。
素直な女の子なら、ここで「貴方のことがどうしようもなく好きなのっ」と可愛らしく言えるんだろうけれど、恋愛偏差値が低い上に色々こじらせてしまっている私にはこれが精一杯。 もちろん、先の会話との流れで完璧に「好き」だと告白しているも同然なのは分かってる。 でも。 それでも尚、言えない言葉が胸の内に降り積もった。 だけど……頼綱《よりつな》には、それだけで充分だったみたい。 「花々里《かがり》……っ」 毛布ごと包み込むように私を抱きしめると、そのままベッドに押し倒してきた。 頼綱の腕の中に閉じ込められた体勢で、簀巻きのままベッドから彼を見上げたら、頼綱が私の上にそっと覆い被さってきて、 「俺は……今のキミからの言葉を自分に都合の良いように解釈するけど、――構わないか?」 鼻先に吐息が掠めるくらいの至近距離で低く甘く問い掛けられる。 私は――。 頷く代わりにそっとまぶたを閉じた。 *** ギュッと目を閉じた私の顔にサワサワと触れるのは、頼綱の前髪? そう思ったのと同時、とても優しくキスを落とされて、薄く開いた唇の合わせ目から、やんわりと舌が伸ばされる。 「……んっ」 小さく喘ぐようにしてそれを受け入れると、私はおずおずと頼綱に応えた。 今まで頼綱からされたどの口付けよりも、今されたばかりのそれは甘く優しい。きっと、頼綱と気持ちを通わせて初めてのキスだからそう思うんだ。 それに、今回のは今までとは違って、食べ物じゃなくて歯磨き粉味《さわやかなミント味》のキスだった。 まるで、少女漫画か何かに出てきそうな、そんな味。 チュッと音を
「さて花々里《かがり》。謝罪の代わりに、僕からキミに何らかの要求を突き付けても構わないよね?」 簀巻《すま》きにされた――実際には自分でやったんだけど――状態のまま、何とか彼の手中から逃れようとクネクネと悶える私に、頼綱《よりつな》がこれ以上ないくらいににっこりと微笑みかけてきた。 ひぃー! その笑顔、「僕」口調でされるとめちゃくちゃ怖いですっ!! 「な、な、な、何をっ」 私は今からご主人様にどんなひどい折檻をされるのでしょうか!? 不測の事態に備えて何とか手だけでも出したいのに、頼綱はそれを許さないみたいに、毛布ごと私の身体をぎゅっと抱きしめてきて。 それはまるで「逃がさないよ?」と圧を掛けられているようで、ますます怖い。 「ねぇ花々里。うちに居候しているとか、俺に雇われている身だとか、そういうのを全て抜きにして正直に答えて欲しいんだけど」 いいね?と視線だけで念押しされて、私は蛇に睨まれた蛙みたいに射すくめられてしまう。 頼綱、何てかっこいいんだろう。 オールバックでバッチリ髪の毛を整えている頼綱も隙がなくて見栄えがするけれど、今みたいに無造作に下ろし髪にしている彼は堪らなく色気があって素敵だ。 そんな整った顔で、前髪越し、真剣に私の顔を見つめてくるなんて……ずるい。 私、その目には逆らえそうにないよ。 観念したように小さくうなずくと、途端、頼綱が何故か緊張したように居住まいを正した。 「頼、綱……?」 その様子にこちらまで気持ちが張り詰めてくるようで。 恐る恐る彼の名前を呼んで、頼綱を不安いっぱいになりながら見上げたら、彼はそんな私をじっと見下ろしてきて。 いつもより更に低い